宮島街道名勝旧跡

2016/08/06 広島市西区

「歴史散歩」68 ~広島市西区 海蔵寺物語(3)/東城・堀田浅野家の墓所

忠義一徹の勇士  堀田孫左衛門高勝


JRの踏切を渡って石段を上ると「海蔵寺」がある

 かの明智光秀の家来には、
福知山城の城代をしていた堀田孫左衛門高勝という忠義一徹・戦上手の勇士がいた。

 本能寺の変の後、天下を目指した光秀だったが、
中国大返しを敢行した羽柴(豊臣)秀吉に、
山崎の戦いで敗れたことはよく知られている。
 ところが忠臣とはいえ、孫左衛門は城代として城を守っていたため、
本能寺の変を企てる謀議には参加しておらず、
秀吉は戦いの後、「堀田の責任は不問」の結論を出している。

 
 それを聞いた浅野家初代の長政は、
後継ぎの長男幸長の養育役に孫左衛門を請い、
ようやく承諾してその役につくと彼は、
期待通りに武事を講じ、義を説いてその成育を見守った。

 
 幸長15歳の初陣・小田原城攻めの際には、
孫左衛門のアドバイスで華々しい手柄を上げた幸長。
秀吉はその功をほめたたえたという。
長政の喜びは一方(ひとかた)ならず、
孫左衛門の浅野姓をゆるし、彼は以後浅野を名乗るようになる。

 
 その後、朝鮮出兵に参加した幸長や加藤清正が
蔚山(ウルサン)城に籠城し20万の明の大軍に対峙した際も、
討死覚悟で城を出ようとした両人を孫左衛門が諌(いさ)め、
ついに帰国まで導いている。

広島市西区草津の「海蔵寺」

 
 孫左衛門の子・高英は、浅野本家とともに広島に移り住み、
家老として東城・堀田浅野家 一 万石を得、併せて古江も領有した。
さらに二代の後には本家浅野家から子をもらい受け、
名実ともに浅野家の血統となる。

 「広島郷土史研究会」発行の『軍津浦輪物語』は、
その堀田浅野家の墓所が、広島市西区草津の海蔵寺にあることを伝えている。
 
【学習共同体 河浜塾 河浜一也】

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