宮島街道いまむかし

2013/08/13 

あの時の出来事 あの人のひと言 ~ 柳原 孝平さん 宮工、甲子園へ

宮島工業、大逆転で甲子園へ   

広田野球の結晶 「厳しい練習によく耐えた」


球場にいた全員が奇跡のように思ったはずだ。
いや、あれだけ練習したんだ、
当然とは言わないが不思議ではない勝利、と関係者は納得したろう。

宮島工業高校(廿日市市大野)の甲子園出場である。

平成7年夏の高校野球広島大会。
決勝で崇徳相手に初回5点を先行され、二回裏、
ノーアウトのランナーをバントで送る宮工野球で追いかけ6点を奪って一気に逆転。
5回に引っ繰り返されたが7回に7点を奪い
13対9という大逆転で西広島勢としては初の甲子園出場を果たした。



■決勝戦を町長と観戦
 

当時、佐伯郡大野町の教育長としてバックネット裏で町長と観戦していた。

やはり奇跡のように思えた。
しかし、朝も夜も一日も練習を休まなかった選手たちである。
「努力は報われる」と思った。
決定の瞬間、報道陣が集まった。
タイムスも飛んで行って「宮工がやりましたね!!」と声をかけた。
温厚な教育長と町長の誇らしげな笑顔が思い出される。



■ガッツポーツは禁止
 

監督は広田利信さん(当時41歳)だった。
厳しい人だった。
猛練習は県下に聞こえた。礼儀正しい人でもあった。
だから、選手の態度が気持ちいい。キビキビして心身ともによく鍛えられていた。
モットーがあった。ガッツポーズ禁止である。
「しまったと思っている相手への配慮」だった。
エラーして下を向くなとも教えた。



■応援は中学生チーム
 

甲子園常連校ではないので教育長として準備に奔走した。
宮工にはブラスバンド部がなかった。
大野中と大野東中に頼んで中学生による合同ブラスバンド部を作り甲子園で演奏してもらった。
「あの中学生たちが今、何歳でしょう。
 30歳くらいでしょうか。良い思い出になっていることでしょう」。



■成人式で好敵手再会
 

甲子園は素晴らしい舞台だった。
子どもたちが憧れる理由がよく分かった。
グラウンドに立ってどれほど感激したことか。
選手はかたくなっていたように見えた。当たり前だと思った。
大野から頑張って頑張ってやって来たのだ。可愛くて仕方なかった。
懸命に声援を送った。
相手は岡山の関西高校。
投手はその年のドラフト二位でカープに入る吉年滝徳。
初戦敗退だったが、心の拠り所になる思い出を作ったはずだ。

こんなエピソードが残っている。

大野町にはカープの二軍寮がある。
教育長時代は大野の成人式にカープの選手も招待していた。
平成9年にあの吉年投手が来た。
司会は大野町出身で中国放送の川島宏治アナウンサー。
「甲子園で吉年と対戦したのは誰や」とステージから呼びかけた。
「僕です」と宮工のあの時の四番バッター松本優二さんが答えた。
初ヒットは松本さんが放っていた。吉年投手もそのことを覚えていた。
晴れの日、この年の成人式はいっとき、甲子園の話に包まれたという。


柳原 孝平(やなぎはら・こうへい)さん

平成元年から同10年まで佐伯郡大野町の教育長を務めた。昭和8年7月19日生まれ79歳。
下の写真は昭和26年村内区対抗陸上大会で優勝した時の一枚。
前列左端が柳原さん。廿日市高校の陸上部だった。中央は翌年南海ホークス入りが決まっていた萩本保さん。