宮島街道いまむかし

2013/08/10 

プレイバック・タイムス ~ 平成7年 宮島工業の甲子園初出場

宮島工業  平成7年 夏の甲子園出場  

西広島タイムス 平成7年8月4日「宮島工業特集」号から



 

決勝戦は、そうしなければ勝てなかっただろうと思われるような戦い方だった。

初回に5点を奪われて、勝ちゲームにできる高校生チームはそう多くはない。
しかも、5回に再逆転され、7回には敬遠のボールが大きく外れて、
いやな、いらない1点を奪われてなお、宮工は崩れなかった。

5点をリードされて迎えた2回裏だった。
四番松本が相手の失策で出た。大きく弾んだゴロがセカンドの焦りを呼んだ。
無死1塁。
広田監督の作戦はここでバンドだった。
1点ずつ返していかなければ追いつけないのはようく分かっていても、
応援するのがちょっと辛くなる場面だった。

一度失敗したあと一塁線に決めた。
よく殺されたボールが再び、相手のミスを誘った。
考えられないような大暴投がわずか数メートルの間で飛び出して、
一度死んだはずのボールはライト線によみがえり、犠牲になった平田は二塁累上に生きた。
無死二・三塁。
遅く見えた作戦は攻撃に加速をつけた。
続く六番吉田はノースリー。
ストライクを一つ見たあと、ワンバンドで一塁手の頭上を破った。
ノーヒットの二人が帰って2点。3点負けている雰囲気はすでに消えていた。
続く谷本も1-1からバンドの構えを見せた。
遅い攻撃にはもう感じられなかった。
浮き足立った相手バッテリー。二死からの連続二塁打。
あっという間に試合をひっくり返した。

「あきらめない」広田野球が高校生活のハイライトの中で炸裂した。


バンドと守備が勝因なのはもちろんだが、この二つを、
現実の勝利に結びつけたのは「線」となってつながった打撃だったろう。
全員が同じように繰り返すことができる「引き付けて叩く」バッティングは、
野球王国・広島県の代表校にふさわしい。

  

【振り返って】 

このチームの大きな柱は四番でキャッチャーの松本優二さんだった。
お父さん恒憲さんは大野町役場(当時)の幹部だった。
私が、優二さんの取材を担当させてもらっているものだから、
慣れない取材で役場を訪れると、
いつも声をかけていただき、こっそり何度も助けていただいた。
そのことがうれしくて、今も忘れられない。


宮工が甲子園をかけて県予選を戦っている時、お父さんは入院されていた。
決勝戦は「見に行きましょう」と周囲からすすめられたのに、
誰よりも目の前で応援したかったはずなのに
「これまで、ここ(病院)で応援して勝ってきた。だから決勝も…」
とゲンをかつがれた。

優勝した息子を「自ら進んでよく頑張った」とほめた。
「親孝行してくれました」とお母さん法江さんも喜んだ。

お父さんは、優二さんの甲子園出場を見届けたかのように他界された。
葬儀の日、父の棺に優二さんが記念のホームランボールを添えた。
「大切なボールをいいのか」と声をかけられた。
「ホームランなら、これから、何本でも打ってやる」。
優二さんはそう答えたという。



~プレイバック・タイムス ~ 宮島街道周辺の名場面を当時の西広島タイムス紙面から振り返ります。