宮島街道いまむかし

2013/08/26 

あの時の出来事、あの人のひと言~「旭日章」受章・木下義男さん


戦後初の秋祭り、盛大に開催   

戦後の復旧・復興に「祭り」の力がどうしても必要だと信じた




 
人の集まり、武具の所持、火薬の使用  
この三つの禁止命令が福岡の占領軍第八軍から発令されていた終戦直後の昭和21年。
人の集まりはもちろん、刀や槍を持って舞う神楽、火薬を使う花火…
すべてが禁止されて本式の祭り開催は常識的には困難だった。

青年団長としてしかし、佐伯区の五日市八幡神社でその昭和21年、戦後初の秋祭りを決行した。
子どもの頃から長老に習っていた神楽を、胸の内を叫ぶように激しく回転しながら舞った。
「五丈菊」と呼ばれる高さ15mの花火も吹き上げた。盛大に開催した。
当然、警察が来た。連行されたが若い青年団員が「自分らも行く」と言って聞かず一緒に警察署へ。
大人数になり収容し切れなくなって返された。
18歳の時だった。

 


命は惜しくなかった 

 昭和19年12月。16歳。
志願して陸軍特別幹部候補生となった。
五日市駅を夕方五時の列車で出征し翌朝八時過ぎに京都に着いた。
翌年、陸軍大津航空隊に入隊した。
最初の試験で、丸イスに座らされたまま何度も回されては立ち上がった。
目が回る程度を見る飛行士としての見込み立てだった。
「神楽の高速回転にこの時のイス回しが役立った」と苦笑するが、
飛行士として成果を決める生死を分ける訓練だった。

戦後、「国の為 友は散り…」と詠んだ。
生かされた自分は人のため地域のためなら命は惜しくない…そう思って事に当たった。
騒ぎは覚悟の祭り決行だった。

 

花火で人柄が分かる
 

花火に思い出がある。
自分たちで作った。竹筒に詰めていく。詰める時の力の加減や速度で花火の上がり方に変化が出る。
根気よく同じ力で詰めた人の花火は最後までキレイに光を放った。
「花火で、作った人の人柄が分かる」と言われた。見ていると誰の手か分かる花火がある。
ワクワクして次を待った。
娯楽が少なかったあの頃の花火のもう一つの楽しみ方だった。

 

 

庚午小開設など尽力
 

佐伯区コイン通りで生まれて育ち戦争を体験して昭和37年、西区庚午に移った。
当時、庚午地区には小学校がなく地盤が低くて水はけが悪かった。
いろいろな立場で街づくりを推進した。

庚午100年事業として庚午小学校開設、庚午神社(豊野神社)改築に携わり、
平成3年の太田川放水路の決壊による護岸復旧工事、
同七年頃の排水能力を高める地下工事などの実現に尽力した。


 

庚午橋と飛星ちゃん 
 

庚午は昭和29年に庚午橋が架かって発展したと言われている。
それまでは「庚午の渡し」が行き来して舟賃は五銭だった。
舟には乗らず、頭の上に荷物をくくって泳ぎ渡った。

出来たてホヤホヤの橋を息子と渡った頃を思い出す。
「幼稚園に送って行くんだが、小さいのが橋の脇からすり抜けて落っこちそうでね(笑)」。
ヨチヨチ歩きだった三歳の飛星(あすき)ちゃんの成長と庚午の発展が重なるようで懐かしい。

 

木下 義男さん(きのした・よしお)

庚午中学校区小中連絡協議会会長、庚午地区社会福祉協議会会長、庚午学区体育協会会長など
数え切れない役職を歴任して地域に貢献。
一級建築士、一級建築大工技能士。
平成15年「旭日章」受章。昭和3年12月17日生まれ。